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20.03.2009 18:02 - Днешната българска икономика и Византийската цивилизация- на японски език
Автор: bgjapanology Категория: Технологии   
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今日のブルガリア経済とビザンティン文明
Bulgarian Economy Today and Byzantine Civilization
山本義彦
YAMAMOTO Yoshihiko

1.ソフィア大学と東方文明
2.ブルガリアという国
3.ブルガリア経済の今と昔
4.自立性を剥奪される経済と社会保障の危機
5.経済学者アロヨ教授の指摘
6.差別されるビザンティン文明
7.戦後社会主義体制の歴史的位置と新自由主義改革
8.経済の民主主義と政治的民主制


1.ソフィア大学と東方文明
 
私は2001年9月下旬より10月はじめにかけて、ブルガリアのソフィア大学Софий―ский Университет Св. Климент Охридски東方言語文化研究センター(東アジア研究学部Център Източни Езици и Култури;Center of Oriental Languages and Cultures)の招きで、同国を駆け足で歩く機会を得た。そこで見聞したいくつかの問題や印象について述べてみよう。この大学は1888年に創立されている。同大学のホームページによると、この大学の創立が5世紀間に及ぶオスマン・トルコ帝国の支配が終わってわずかに10年後のことであり、活溌なブルガリア知識人が民族的文化的なアイデンティティー復活にコミットしていたことの証しでもあった。
教授陣は正教授187人、助教授498人、助手977人、講師23人、パートタイムティーチングスタッフ968人の総勢2,653人からなっている。学生数はフルタイム20,348人(大学院等5,260人)、うち女子学生13,677人であり、15学部の陣容を誇っている。他にパートタイムスチューデントも合計すると、学生数は約4万人に及ぶとのことである。すなわち生物学、化学、古典・現代言語学、経済・経営管理学、教育、地学・地誌学、歴史学、ジャーナリズム・マスコミュニケーション、法学、数学・情報学、哲学、物理学、幼児教育・初等学校教育、スラヴ研究、神学の15学部、この他に言語訓練部、情報・教員再教育部がこれらの構成である。学部名称が何れかといえば、古典的な細分化された専門分野別の呼称を取っているのは、2000年春に客員研究員として訪れたカリフォルニア大学バークレイ校と同様である。念のためにつけ加えておくと、文科系について見ると、バークレイ校は学際的領域に関しては大学院生を含む研究ティームや研究センターを組織して活動を行なっており、研究者たちが所属するのはデパートメントであり、それ自体は古典的な分野別組織であるし、学生教育の基本は古典的分野に基礎を置いたものである。専門研究者は学際的領域に関して、大学院生教育にも関連させながら、いわばそのサービスとして付加的に行なっているとも聞かされたことが印象的であった。ソフィア大学もまた同様であるようだ。
東方言語文化研究センターはトルコ語(50年以上の歴史を持つ)、アラブ語(同30年以上)、イラン・ペルシャ語、アルメニア語、インド語(同16年以上)、中国語、ハングル語、日本語(同10年以上)といったおそらくブルガリアから見て「東方」の主要な言語と言語文化をほぼ包含して研究している。大学院生向けにはこれらの研究系を基礎に、トルコ語、アラブ語、東洋アジア研究、古典オリエント系に分けている。こうした分野に及ぶ研究のあり方にも示されるように、ブルガリアはいわばビザンティン文明を基礎に、東西文化の十字路にあたり、民族的にもブルガリア(ブルガール)人、トルコ人、アルメニア人、ジプシー(ロマ)族、スラヴ人、少数のイスラム系(全人口の5%程度)等多様な民族からなる。宗教的には正教会、イスラムなども含む。町を歩く人々の風貌もアジア系、ヨーロッパ系等の多彩な民族性を示すかのようである。
ソフィアの街並みは、ビザンティン文化を示す東方教会下の幾つかの立派な宗教的建築物を中心に、1950年代のゴシック、ギリシャ風建築と広い公園や緑に囲まれ、縦横する街路には、トロリーバス、通常のバス、都内電車、それにメトロが文字通りひっきりなしに走っていて、しかも人々の利用度も高い。私が宿泊した国際ホテルの窓からも、朝早くから夜遅くまで走る都電の光を見ることができた。驚いたことには、十字形の広い道路はもとより、それにアクセスする円環状や蛇行する道路にも先の地上交通手段が文字通り四通八達していることもあってか、自転車などを利用する人には巡り会うことはなかった。都市における公共交通手段の重要性を今更ながらに感じさせられたものである。日本の都市交通が個人自動車優先の無軌道かつ無原則なあり方に反省を迫るものであり、これらは何れも社会主義時代に築かれた社会的フォンドфондである。帝政ローマ時代の浴場や地下水路などが残っており、紀元4世紀の教会なども見られ、まるで大ローマ帝国の影を知ることができる。キリスト教弾圧時代の地下に隠された教会も残っている。

2.ブルガリアという国

 ブルガリアは11万994k㎡、人口は821万人、首都ソフィアの人口は112万人、住民はブルガリア人86%、その他トルコ系9%、ロマ系4%、アルメニア系、マケドニア系などからなる。宗教的にはブルガリア正教徒80%以上、その他カトリック教徒、プロテスタント、イスラム教徒、ユダヤ教徒など。GDPは1989年で100億8,500万ドル、国民一人当りGNPは1,230ドル(約14万7,600円)。為替相場1ドル=約2レヴァ(лева)である。GDP成長率は99年で2.4%(前年3.5%)、赤字国営企業の整理等のため鉱工業生産は12.5%、失業率は19.0%、インフレ率は97年の578.6%から99年には6.2%へ急激な低下を示し、欧州委員会の見通しでは、2000年のGDP成長率は5.4%であった。政府は例えば最大銀行ブルバンク(Бълбанк)の98%の株式をイタリアのウニクレディット・イタリアノ(Unikredito Italiano)とドイツのアリアンツ(Allianz)による企業連合で調印された。
 1999年の貿易赤字は過去最高の15億150万ドル(前年比96.7%増)である一方で外国からの直接投資も過去最大であり、7億3,900万ドルに上り、国際収支は99年8,640万ドルの黒字への転換を可能にした。 外貨準備高は28億9,200万ドルに達した。主要輸出品は衣類等繊維、木材、金属製品、相手国はイタリア、ドイツ、ギリシャの順。輸入品は機械類、鉱石・燃料など、ロシア、ドイツ、イタリアの順である。主要な資源は石炭、鉄鉱石、銅、鉛、亜鉛、石油である。NATOとEUへの加盟を最優先課題とし、中欧自由貿易協定(CFTA)に99年1月から正式加盟した。99年対日輸出はワインなど3,377万ドル、輸入は機械、自動車など1,795万ドル(以上は、『世界年鑑2001』共同通信社、2001年3月による)。
 ここでIMFの2001World Development Indicatorsによる数値をあげてブルガリアの実相の一面を捉えておこう(Table 1)。

              Table 1. Bulgaria’s Growth of output
GDP            Agriculture      Industry       Manufacturing     Services
Average annual Average annual  Average annual  Average annual  Average Annual
% growth         %growth        %growth         %growth        %growth
1980-90    3.4             -2.1           5.2             ----            4.5
1990-99   –2.7               0.3          -4.7             ----          -1.8
2001World Development Indicators

 これらの数値を見ても、例えばGDPそのものが社会主義政権崩壊後、年率でマイナスを記録し、とくに工業生産のマイナスがいかに大規模であるかが十分に知られよう。農業は意外にも社会主義政権下のおよそ10年間、マイナスを記録したことになっていて、おそらく農業の停滞期を示したものであろう。これに対して、社会主義崩壊後、若干ながら上昇を記録している。むろんこれらの数値の信憑性についてはステファノフ博士が指摘しているとはいえ、十分には社会主義崩壊後の状況を把握できない。サービスの低下が、内容的には金融、商業、公務等を含むものと考えられる分野の低迷を表現している。

  3.ブルガリア経済の今と昔
 
さて先の研究センターでは、私を招いた47歳のナコ・ステファノフНако Стефанов博士(1954年生まれ、日本経済と日本企業論の研究者、近著にЯпонският модел за фирмено управление〔日本語名「日本の企業管理モデル」〕、2001,Софияがある)から、また特に昨年度までソフィア経済大学で教鞭を執っていたジョン・アロヨЖон Аройо教授(1921年生まれ)からも、ブルガリア経済社会の直面する問題点を詳細に熱っぽく聞かされる機会に恵まれた。
 アロヨ教授は社会主義政権時代にも、さらに1989年「東欧革命」後の現在についても誠実、かつ精力的に研究を進めてきた貴重な第一線の最高の研究者であるとステファノフ博士が紹介してくれた。しかもアロヨ教授はナチズム時代にはユダヤ人として収容所、監獄に入れられていた経験を持つ往年の闘士でもある。興味深いのは、社会主義時代の大多数の経済学者は、かつての主張をいとも簡単に捨て去って、今や市場原理主義、新自由主義経済論に宗旨がえをしているとのことである。その点で、アロヨ教授は基本的スタンスを今も変えることなく経済研究をしている。二人がじゅんじゅんと説くブルガリアの現状はほぼ次のようである。
社会主義政権が崩壊してこの10年で、工業生産はおよそ半分に後退し、農業生産は驚くなかれ70%もの後退を余儀なくされている(この数字は私が現地で読んだ有力紙ТРУДという新聞でも指摘されていた〔同紙「労働」はドイツのジャーナリズム資本に買収されている〕)。失業率も公式統計では25%程度であるが、実際には40%を越えるだろうとのことである。ステファノフ博士は公式統計があてにならないことをしばしば指摘している。先の世界銀行の統計とはずいぶん異なっていると思われるが、ステファノフ博士の議論やここで取り上げたジャーナリズムの報道を無視することは困難であると考えられる。というのは公式統計をおそらく前提として、世界銀行統計が作成されていると見られるからである。
ブルガリアでは、岩林彪氏の指摘によれば、1989年1月、「経営活動に関する法令第56号」によって、経営活動全般に対して「会社」をその基本形態と規定した。89年12月、ブルガリア共産党中央委員会総会は事前調査なしに、会社の創設、伝統的な方法での経営者の選任、生産の民主化と労働集団の自主管理を妨害するための会社組織の利用、テクノクラート的傾向の強化等を指摘した。このために結果としては、国家官僚による経営支配を許すことになった。1980年代を通じて、国民の貨幣所得は引き上がる中で日常物資の超不足状態が続き、投資活動の一面的な優先により国家予算の大幅赤字(巨額の補助金支出に基礎をおく)によるインフレーションを通じて-本来、商品不足であれば、実質価値の上昇が随伴するはずであるが、その条件下で国家財政支出の膨張が図られたために「品不足下のインフレーション」(!)が生じたことになる-、農産物輸出国から輸入国への転落が始まったのである。もちろん、インフレの進行の中で、地下経済も肥大化した(岩林彪「ブルガリア」小山洋司編『東欧経済』世界思想社、1999年)。
アロヨ教授は、およそ次のように述べている。現在、選挙の2ヵ月前にスペインの財界人として活躍してきた旧王国時代の王の息子(シメオン二世Симеон Сакскобургготски)が帰国し、首相に選ばれている。しかも彼の取り巻きは、まじめな新自由主義的経済学者、ノーメンクラツーラноменкратура資本家(社会主義政権下の官僚で国有企業の民営化を直接に引き受けた集団)、暴力団的な地下経済(ブラックエコノミー)の担い手であるという。ステファノフ氏のより整理された議論では、(1)ノーメンクラトゥーラ、(2)アメリカン・レジーム(民間に返還された資本)、(3)クリミナル・グループ(犯罪者)、(4)アンティ・コミュニズムの四大グループがブルガリア経済を牛耳っており、いずれもコンプラドール(買弁)と言うべきだと手厳しい。そうした諸勢力の合流点がニュー・リベラリズムを形作っている。
私の度重なるつたない質問に対して、丁寧にこの二人の経済学者が答えたものによると、旧社会主義時代には、ブルガリアはヨーロッパで有数のフォークリフト生産国でありその輸出国であったのに、これらの生産能力は約40の国営企業の一挙廃止で崩壊し、その蓄積されていた優秀な技術と知的能力が雲散霧消した。また農業に至っては、協同組合的集団化により維持されていた機械化の基盤が、協同組合の否定、小零細農耕への逆転をもたらし、それ故に機械化農業の解体をもたらし、先のように生産能力を喪失し、まるで18世紀か19世紀の農業に舞い戻ったという。私の一見したところ、たしかに農村地帯はおよそ手作業の農業であった。私にとっての子供時代以来、久々に馬車や荷車の通るのどかな-実は厳しい-農村の姿を見ることができた。もっとも数年前の北京郊外、中国東北部も同様であった。ちょうど1950年代、日本農村で見られた、ありふれた風景であった。農業集団化が生産性をあげていたというこの人たちが認識していることの正当性がどの程度あるかどうかは微妙かつ不明である。しかし、とはいえ、集団化によって機械導入の条件が広がっていたことは想像可能である。
一概には言えないけれども、日本が第二次大戦後経験した農地改革は、農民を地主制と長子相続制のくびきから離脱することによって、多数の単婚小家族の形成とともに、農民の生産意欲が拡張し、しかも戦後の食糧増産の課題を背負わされたことも手伝って、1950年代以降の生産力拡大に向かった。たしかにここでの意義は小土地所有者の形成にあったといえよう。しかしながら、ブルガリア農業の現段階的問題は、おそらくグローバル化の新段階にあって、農業生産が国内条件によってのみ自立的に経営できる基盤を喪失していることであろう。すなわち生産性の低い農業はたちどころに外国農業にその市場を蚕食され、破壊されということである。いわば市場条件の相違が半世紀前の戦後農地改革期の日本と現段階のブルガリア農業を隔てているのであろう。ブルガリア農業は社会主義時代も個人所有地を前提にしての集団化=協同組合経営体に変革することによって、機械化の条件を生み出し、経営能率を高めていたという。それが一挙に解体され、戦後日本の農地改革期の労働集約的農業生産で可能であった状況とは異なって、国際市場条件に大いに左右される現代ブルガリア農業の現実は、容易ではないのである。
ここで最近10年間の比較統計数値を掲げておきたい(Table 2)。

      Table 2  最近10年間の人口1人当たり消費財生産量の推移
           1988年                    1998年
パン             198.7kg                   146.3kg
肉類               75.8kg                   33.4kg
ミルク             192.2l                    55.5l
卵                256.6個          127個  
野菜        108.2kg                  60.1kg 
果物               106.7kg                  35.7kg
(Терорът на мизерията ‘НОВА ЗОРА’ 25 септември 2001г.による)

この表に見るとおり、社会主義政権末期の1988年時点と社会主義崩壊後の1998年とは、いずれの消費財の生産水準も半減、あるいは3割程度の水準に落ち込んでいることが歴然としている。しかも基本的食糧品の分野でのことである。しかしBeatrice Weder, Institutional Reform in Transition Economies : How Far Have They Come (IMF Working Paper, Aug.2001 ) によれば、ブルガリアは発達した工業諸国の中位水準とのギャップ、偏差では移行過程の諸国(Transition Economies)31カ国中ハンガリー(偏差約-5.0)、スロヴェニア、ポーランド、 チェック、エストニア、スロヴァック、ラトヴィア、リトワニア、モンゴリア、クロアチアについで第11位(偏差約-13.0)といちおう上位につけている。最下位はタジキスタンで-28.0である(1997年。これらの数値はいずれもグラフからの読み取りで概数である)。

  4.自立性を剥奪される経済と社会保障の危機
 
両博士の指摘から見えてくるものは、もはやブルガリア経済は自立性を失い、もっぱらIMF管理下におかれ、金利政策、租税、産業政策の逐一に至るまでも、同機関の指示のままに動かされている状況にあり、まるで同国経済は、アメリカの新植民地だとさえ指摘されていた。この点も決してこの二人の経済学者の認識に止まっていないことは、ТРУД[労働]やНОВА ЗОРА[新朝日]、КАРИЕРА[キャリア]の記事からも確かめられた。この「新植民地」(主義)неоколониализмという言葉も、私の1960年代初頭の学生時代に国際的にしばしば使用されていたものだった。それは政治的には主権国家でありながら、経済的金融的には従属国家の構成をとる(レーニンВ.И.Ленин『資本主義の最高の段階としての帝国主義』Империализм,как высщая стадия капитализма,1917年の類型的認識で言う「β型」ではなく、植民地的位置と見られよう。レーニンのこの論議については、彼の『帝国主義論ノート』Тетрады по имлериализмуとともに検討を要する内容を含むが、これらに関して、私はかつて『戦間期日本資本主義と経済政策―金解禁政策をめぐる国家と経済―』柏書房、1989年の第4章で検討したことがある)。
私は、それでも、通りの青空市は夜遅くまで野菜、果物を満載しているではないかと問うたところ、返ってきた答えは、今やブルガリアの農産物ではなく、ほとんどギリシャ等からの輸入品だという。農地についても、間もなく外国人にも所有権が認められる法律が通過するので、多国籍農業企業の支配をゆるすことになるだろうとの見通しである。生鮮食料品は街路の先の露天販売商から十分に賄うことができる。むろん日本にも存在する大規模スーパーマーケット風のものもあるが、これはむしろ商品価格が高く、高給取りの家族が利用していると言うことであった。すでに、なるほど繊維製品、玩具では中国製が幅を効かせていて、もはや国内製品は力を持たないのだという。たしかに私が見た商店の土産物、玩具にはちょうどアメリカでも見られたように中国製品が目立っていた。ステファノフ博士の目からは、この十数年来、日本についても結局、アメリカ資本の支配を許しており、世界経済におけるアメリカの一人勝ち体制を強め、日本の追撃(経済発展)を困難に陥れていると見ている。その点で日本研究者である同氏の対日観は厳しいものがあり、日本人研究者として母国の現状についてあらためて恥ずかしい思いをさせられた。
たしかに社会主義政権時代にはなかったような思想表現の自由は拡大し、物資も表面的には豊かになったが、内情は上のようなことだという。またなるほど思想の自由はあるが、政治・経済指導層は一切現状の市場原理主義的、新自由主義的政策への批判には耳を傾ける状況にはない、とも指摘された。(思えば、今日の日本もそれに近い気がする。)要するに経済の自立性がますます剥奪され、この冬には集中暖房システムもドイツ資本に売却される予定で、そうなれば利用料も引き上がるので、ステファノフ氏はこのシステムから離脱する予定だという。もっとも離脱したところで、施設費〔全体経費の30%分〕は負担を余儀なくされるとのことであるが。
あらゆる生産的・流通的基盤が民営化され、社会的安全装置として機能していた社会保障、医療、福祉、教育もまた公的管理を失われてきたために、社会主義の下では見られなかった物乞いが街路に増え、ホームレス、貧困層も大量に発生している。とくに正教会系の社会では貧困者に対する喜捨が美徳とされているだけのことはあって、ソフィアに多数存在するブルガリア正教会のそばには物乞いが陣取っており、また女性には働き口が見あたらないために、なんと12歳前後になれば、西欧、アメリカ、日本に性風俗営業に従事すべく「出稼ぎ」状況にあり、男性労働力は外国に出かける。社会の民主制の前提たるべき、女性には中等教育すら与える余裕を失ったのである。私も街路に年輩から少女や少年までの物乞いをも見なければならなかった。こんな状況を横目に、同じ街路には外国有名ブランドの服飾品、化粧品がショウウインドウを飾る。たしかに貧富の格差がそこには反映しているのであろう。
なおこの面では、アマルティア・セン『貧困と飢餓』によれば、女性が教育を十分に施されることが、順当な社会発展を保証するという点をインド・ケララ州について論じた。そこでは平均識字率52%のインド全土で同州識字率は90%、1991年公式統計、女性識字率も抜群に高く、これは19世紀末からの現象という。こうした高い識字率がケララ州女性に合理的な判断に基づく産児制限を可能にした。これに対して中国の政治的産児制限「一人っ子政策」の場合、女性の合理的知的水準の向上を基礎にせず、女児を生むよりも男児を志向し、自然的性比を保持できなくなっているとしている。この指摘は十分に傾聴に値




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